2009年11月19日 (木)  かむりの川

志波彦神社と冠川伝説
   http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/folder/941771.html

歌枕を調べていて偶然にこのページをみつけました。

七北川が「冠の川」と呼ばれている事を知っていました。七北川のそばにある高砂中学校の校歌でも「冠の川の水澄みて♪」と歌われています。
しかし、何故に七北川が「冠の川」と呼ばれているかを誰も知りませんでした。
その昔、七北川は多いに氾濫をして人々を悩ませていました。それで、昔の人が氾濫の原因を「神様が怒っているから」と考えてかと想像していました。ほら怒っているひとを「いま、あの人おかんむりだから」なんていうじゃないですか、、、

暫く、仕事場を泉にしていました。そこで知ったのは泉でも七北川をカムリと呼んでいたことでした。しかし、カムリという漢字を「神降り川(かむおり)」とあてていました。そして神様が七北川に冠をおとした話を聞いたのです。
七北川は川下の人にとって氾濫する川で、「川の神よ騒がないでお鎮まりください」と畏れる対象だから、、「御冠の川」としてカムリの川と呼んだだのだろうか。
川上の人にとっては、農地に水を引くには労力が多大に必要で七北川は人々に水を恵む神と畏れていたから、「神降り川」としてカムリの川と呼んだだのだろうか。
、、、と漢字の意味を想像していました。

先のページを見て、伝説の整合性に納得するものがありました。このぺーシによれば次ような伝説があるようです。
志波彦大神が馬で七北川まできたところ、七北川に冠を落としたらしい。
冠を落とすことになった原因として七北川の川底にあった石に志波彦大神が乗る馬が躓いたという話**も**あるようです。それで志波彦大神は七北川の川底の石を取り除いたそうです。その取り除いた石を置いた場所が石留神社ということです。
一方、志波彦大神が落とした冠は多賀城市のほうで狐が見つけたそうでそこには冠川神社があるそうです。

先のページによれば、志波彦大神は川底の石に躓いたことに「怒った」とあります。この文からすると「御冠(おかんむり)」は間違ってていてもとおからずなのかもしれません。
しかし、この「怒った」は文の流れで使用されただけなのかもしれません。志波彦大神は川底に石があることに問題を感じ改善をしたとも思えます。やっぱり、冠の川り語源は「川に冠を落とした」ことによるのでしょうね。

先ページで志波彦大神を実在した人物ではないかと想像していました。
■「神」という単語には人間以上の力をもった者という意味などや、亡くなった地位ある人(能力のある人)、ある事由により思いの強い人(特に怨念)をさすことがあります。
■冠という単語は西洋の王冠を思い浮かばさせますが、中国の影響下にある国は地位(階位)を現すものでした。
ここの地で戦などが原因で、「地位を」「領地を」失った人の事を神と伝えたのかもと私も想像してしまいました。

先のページへのコメントで七北川付近で戦があったことが書かれていました。確かに、七北川の河口付近に城跡がありました。
坂上田村麻呂の話もありました。付近の地名「田子」という名の由来はこの坂上田村麻呂が名づけたという伝説もあります。
志波彦大神は国造りをしたと志波彦神社で伝えているそうです。七北川の河口付近をみると明らかに人間の手により、水の流れを修正しているとおもわれる流れになっています。

早速、八坂神社に行き冠川神社を見てきました。画像はその時のものです。

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                                     境内にあるパンフレットから
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                             仙台八坂神社由緒
鎮座地
         宮城県仙台市宮城野区岩切字若宮前十一番地の七
御神祭
         素戔菱尊 奇稲田姫命
例祭
         大祭 八月一日
前夜祭
         七月三十一日
当社は建久元年(一一九〇年・平安)六月七日、高森城主である伊沢家景が京都の祇園がち勧請、岩切村余目家に鎮座し、神田二十石の地を治めた歴史ある神社として知られている。
その後、阿村台ヶ原頂上に座して天王山と稱したが、戦国天正のころより社殿が荒廃し、祭事を欠くに至った。
藩主伊達政宗は寛永年中、天王山より現在の地に遷宮し、祭田二百文(二石)の地を寄進して厚く祭事を行う。
神仏混淆の際より祇園牛頭天王社と称したが、明治の初め現社号に改め、明治六年に郷社に列し、大正三年十二月に幣帛共進社に指定。
明治四十三年四月、各区内鎮守社を本社に合祀した歴史を持ちます。

                             境内社 冠川神社 (志波彦神社)

冠川神社は、志波彦神社の名でも知られている八坂神社の境内社である。
天正に縁起を焼失、沿革不詳だが本社は延喜式内名神大社志波彦神社で、いつ頃よりか甚だしく衰微もていたが、延宝三年の再建には堅石五尺横六尺の小祠になり、しかも摂社である天王社と並び立つ状であった。
明治四年五月十四日、官国幣社規定に当り国幣中社に列せられたが、社地が狭いため社殿造建不可なる理由により、明治七年二月二十四日、塩竈神社へ遷座。
明治十年三月三十一日、官許を得て志彦神社分霊を岩切村の旧社に奉遷して冠川神社と稱し、国幣中社志波彦神社、塩竈神社の摂社に指定された。


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                                       設置されている説明文
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                             冠川神社

志波彦神社は、もとこの付近にあり、冠川明神ともよばれていたが、明治七年(一ハ七四)に塩竃神社に遷宮され、八坂神社には祠が残されたが三年後に分霊をして、塩竃志波彦神社の摂社となった。
冠川神社は、小さな祠であるが別名を志波彦神社といい、「延喜式」の「神名帳」に載せられた官社あでる。(官幣社)
官社を「式内社」といい、後世、神社の格式を示すものとして重要視された。
宮城郡の式内社は、伊豆佐売神社・志波彦神社・鼻節神社・多賀神社の四社である。
そのうち志波彦神社と鼻節神社は名神大社とされる。
祭神は志波彦神。貞観元年(ハ五九)に正五位下から従四位下に引き上げられた。
志波彦神社は別名、冠川明神・神降明神・西宮(多賀城を中心に東宮・西宮・南宮・北宮)と呼ばれていた。

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