Diary 2004. 11
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2004年11月20日 (土)  銀杏

一年の思いを乗せて舞う銀杏

一年(ひととせ)の
     思(おもい)を乗のせて
             舞まう銀杏(イチョウ)

仙台駅の東口から新寺の通りをそぞろ歩いていて、 ある寺の山門に書かれていた俳句です。


山門の落ち葉を掃く女性がいて、 その脇で「掃いた後だから、(銀杏が)あまりおちていないね」といいながら銀杏を拾う女性がいました。 その女性に対して、掃き清めている人は「今年は、あまり実がならなくてねぇー」と返答をしていた。

偶然にも、二人の会話を聞いていて、私の今年の成果はなんだったろうかと考えます。

 



新寺どおり、正雲寺の山門にて思ふ 


2004年11月21日 (日)  

月は露つゆは草葉に宿かりてそれこそそれよ宮城野の原

     月(つき)は露(つゆ)
       つゆは草葉(くさは)に
             宿やどかりて
     それこそそれよ
     宮城野みやぎのの原はら

宮城野区宮千代一丁目に「宮千代の墓」という史跡があります。 この墓について、いろいろと古い話が伝わっていますが、宮千代の墓の横には「史跡宮千代の碑」として次のような話が記されています。 

松島寺(現瑞厳寺)に、和歌を好み、才能ゆたかな宮千代という美少年がいた。 宮千代は和歌修行の為都にのぼる途中、宮城野の美しさに魅せられて「月は露 露は草葉に 宿かりて」と詠んだが、下の句が続かず苦しみながら亡くなった。 村人は松を植え塚を築いて弔ったが、夜になると宮千代の霊が「月は露、、」と吟じて、通る人をこわがらせた。 このことを知った松島寺の徹翁は、下の句「それこそそれよ 宮城野の原」と続けた。 それから地下からの声が聞こえなくなったという。



短歌は、5,7,5,7,7の音節を基本としていますが、 万葉集を読むと、あまりこの音節の数にこだわっていなかったように私には感じられます。 どちらかというと、音の調子に気づかっていたように思えるのですが、 何分、私はその時に生きていなかったので発音や音節を聞くことができず明言できません。(当たり前か)
31音の内、5,7,5を上の句といいます。 上記の歌の場合では「月は露つゆは草葉に宿かりて」にあたります。 残りの7,7の音節を下の句といいます。 先の例で言えば「それこそそれよ宮城野の原」にあたります。
この上の句と下の句を別々の人が作る事があります。 これを連歌というのかもしれないけど、よく調べたことがありません。

宮千代にまつわる上記の歌に戻ると、、、
宮千代の話が作り話としても、上の句と下の句が同一人物が作ったものとは思えないものがあります。
「月は露」、tuki,tuyuと韻を踏みリズムと強い印象を感じさせます。 そう、宮城野原という野原に立ち、月光で夜道が照らされて、露が月の光で輝いている様子が想像できます。
その「つゆは草葉に」という事で、その露が一面の草葉の上に在り、且つ、光っている様子を感じさせます。
そして「宿かりて」です。この歌の第二節と第三節を分けて考えることには疑問がありますが、 つゆの本当の居場所は草葉の上ではなく、月も露の中で光るというものではないと言う事を言っていると感じます。
面白いのは、この歌が月=>露=>草葉と逆に読上げていることです。多分、光景を見た印象の順に歌ったのだろうと思います。 でも、第二節と第三節を併せてよむと「宿」は、大変に小シャレの利いた語にも読めます。 
下の句は、「宮城野原は、宮城野原こそがその(上の句)のとおりなんだ」と言う意味だと思います。 名詞で終了しているためか、音の終わり方に「シマル」ものを感じます。

上の句と、下の句の表現方法や意味を変えることで面白さが出るのかもしれませんが、技量が違いすぎると思うのです。 ですから、上の句と下の句は別の人が作った感じがします。

宮千代にまつわる話はいくつかあるようです。 この怪談じみた話の中で、宮千代は下の句を与えられると納得したようでした。 本当にこの下の句で宮千代は納得できたのだろうかと疑問に思っていました。

2004年霜月21日、宮千代の墓を見てきて、帰り道に考えていました。 宮千代の墓の横に掲げられた史跡の説明文を読むと、 現世で迷う宮千代に瑞願寺の和尚は下の句を授けるために、松島から仙台に来た事になっています。 その間、和尚は下の句を吟じていたと想像できます。 昔のことだから、松島と仙台の距離は一日、二日以上の距離があったとおもいます。 それにしても下の句は、上の句にたいして貧相な感じがします。

 この文章を書いている所に、誰かに囁かれた気がします。 下の句は「それは、あなたの為への下の句ではなく宮千代へのものだから、あなたには価値がわからない」と、、、
ハッとしました。
「京に行き歌を歌うよりも、身近に歌で有名な地があったではないか」という「答歌」だったように思われます。 上の句は「問歌」ではないのですが、そう考えるとこの話の作者が上の句に「宿」を置いた理由も理解できます。 「もっと、別の所へ」と考えながらも、本当は今の場所が自分本来がいる場所なのかも知れないと問いかけられている気がします。
なんとなく、墓が松島の瑞願寺ではなく宮城野原に残っているのもわかるような気がします。
宮千代の話を雨月物語の青頭巾に似ていると書いている人がいました。 雨月物語は作者がおり、物語として纏めた編纂者がいる事をうらやましく思う。 宮千代の話も作者がいると思います。 今にしてみて、この和歌は意味が深いものかもしれないと思います。

ところで、宮千代の墓の脇には地元の名士の偉業を称える碑がありました。 もしかすると、宮千代はその人の縁者だったのかも知れませんね。(まったくの想像です)

過去にどんなことがあったのか分かりませんが、その人の墓がそこにある事は事実です。 生きていながらも、周囲から忘れられている事がある事を考えると不思議ですよね。  

【青頭巾】
http://www.agape.jp/etc/ugetsu.html

【追記】2004/12/31 「宮城野」は露にかかる枕詞です。

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公園に設置されている説明文

宮千代塚の由来

昔、松島寺(瑞巌寺)の高僧見佛上人に仕えた宮千代といふ才色勝れた維児があった。
幼い頃から秀才の誉れ高く歌をよくし、折々は京都に歌を上せて大宮人の賞讃するところとなっていた。
宮千代はかねがね京に上って歌の修業をしたいと念願していたが、遂に上洛を企て松島をぬけて宮城野原に差しかかった。
折からの月明かりに一面の草原は露の王か宝石のようにきらめいて詩情を誘った.
宮千代は思わず「月は露つゆは草葉に宿かりて」と詠んだかどうしても下の句がつづかない。
苦吟を重ねるうち病に罹リ里人に引き取られたが看護の甲斐もなく空しく悶死してしまった。
里人は哀れに思ひ懇ろに葬むリ塚を築いてやったが、その亡霊が夜な夜なあらわれ「月は露つゆは草葉に宿かりて」と口ずさんだ。
このうわさを聞いた見佛上人がある夜宮城野原へ来て塚のほとりを通ると果たして月は露といふ声がしたので「それこそそれよ宮城野の原」と下の句を.手向けてやったところ亡霊も出なくなり歌の声も止んだと伝えられている。

17-1.jpg



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