Diary 2009. 10
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2009年10月1日 (木)  風待ちの港の風景

広島県福山市の景勝地・鞆の浦の埋め立て免許の交付が、広島地裁で差し止めを命じられました。
ニュースでは「鞆の浦は風光明媚な瀬戸内海国立公園にあって、"風待ちの港"として知られ、古くは万葉集にも詠まれている。江戸時代の朝鮮通信使が立ち寄り、最近では宮崎駿監督のアニメ映画"崖の上のポニョ"を生み出す地にもなった。」と報じています。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば「万葉集には鞆の浦を詠んだ歌が八首残されている。」そうです。八首も!!、それだけ鞆の浦は古くから多くの人に愛された地なのでしょうね、、、風景を変えることに躊躇してじっくりと考えることも必要と思いました。

万葉集に鞆の浦を詠む歌で大伴旅人のものが多くの人に取り上げられています。それは妻を亡くした悲しみを詠んだ歌です。その内、三首に「鞆の浦に立ち寄った日に作った歌」と書かれてあり、残り二首に「敏馬の崎に立ち寄った時に作った歌」とあります。

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第三巻446〜450 題詞に次のようにかかれています。
天平二年十二月に太宰師大伴旅人卿(だざいのそちおおともたびときょう)が帰郷の途についた時に作った歌五首
  第三巻446
    吾妹子(わぎもこ)が見し鞆(とも)の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき
  第三巻447
    鞆の浦の磯のむろの木見むごとに相(あひ)見し妹は忘らえめやも
  第三巻448
    磯の上に根(ね)這(は)ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか
  第三巻449
    妹と来(こ)し敏馬(みぬめ)の崎を還(かへ)るさに独りし見れば涙ぐましも
  第三巻450
    行くさにはふたり我が見しこの崎をひとり過ぐれば心悲しも
                                                                                        万葉の歌人・大伴旅人の歌

  第三巻446
    わが妻が 見た鞆の浦の むろの木は 今も変わらずにあるが これを見た人がいない
  第三巻447
    鞆の浦の 磯のむろの木を 見るたびに 共に見た妻のことが 忘れられようか
  第三巻448
    磯の上に 根を張っているむろの木に かつて見た人のことを どうしているかと尋ねたら 教えてくれるだろうか
  第三巻449
    妻と来た 敏馬の崎を 帰りがけに ひとりで見ると 涙が出そうだ
  第三巻450
    行きがけに 妻と二人でみた この崎を ひとりで過ぎるので  心悲しい


※鞆の浦は広島県福山市鞆町の海岸です。
※敏馬は神戸市灘区岩屋のあたりで「見ぬ女(め)」と掛けていと思われます。

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【大伴宿禰旅人】おおとものすくねたびと
大伴淡等(淡等=たびと)・大伴卿・僕・主人・帥・帥老・大納言・大納言卿・大宰帥・中納言・後人・卿

馬飼(長徳)の孫。安麿の子。家持・書持の父。
母は多比等女(たびとめ 伴氏系図)、あるいは巨勢郎女ともいう。
和銅三(七一〇)年一月隼人・蝦夷を朱雀路の東西に並べて率いる。
時に左将軍正五位上とある。
同四年四月従四位下となり、同七年十一月再び左将軍となる。
霊亀元(七玉)年一月従四位上、同五月中務卿となる。
養老二(七天)年三月中納言、同三年一月正四位下、同九月山背国の摂官となり、同四年三月征隼人持節将軍となり、同六月隼人反乱の鎮定の功績を慰問され、同八月帰京する。
同十月藤原不比等へ太政大臣正一位を贈る使、同五年一月従三位、同三月帯刀資人を賜わる。
同十二月元明太上天皇の崩御により営陵の事に従う。
神亀元(七二四)年二月正三位、同七月夫人石川朝臣大菱比売の莞により正二位を贈る使となる。
天平二(七三〇)年十一月大納言を兼任することにより大宰府から帰京し、同三年一月従二位となり、同七月亮じた(続紀)。
神亀四年末か五年のはじめころ大宰帥に着任し、直後妻を亡くす(万)。
懐風藻には五言詩一首が載り、従二位大納言年六十七とある。



2009年10月2日 (金)  多賀城碑

多賀城に「多賀城碑」というものがあります。
車の練習もかねてこの壺の碑まで行ってきました。多賀城は起伏が激しくそのまま坂道発進の練習をしているようでした。

この碑は「壺の碑」という名前で有名になり、「壺の碑」という名前のために「偽物」とレッテルを貼られた経緯があります。

多分「多賀城碑」は壺の碑ではなく「多賀城政庁の跡に付属する碑」として本物らしいく、江戸時代以降の人がこの碑を「壺の碑」と呼ぶことにより、壺の碑としては「偽物」ではないかと疑われるようになりました。
一時、「多賀城政庁の跡に付属する碑」としても「偽物」ではないかと疑われましたが、今は本物とされています。

壺の碑とは坂上田村麻呂征夷大将軍が征夷(9世紀初頭、大和朝廷による蝦夷征夷が北上)の時に弓のはずで石面に日本の中央と書いた石碑のことです。この壺の碑がどこにあるのかわからず、昔の人は「どこかにあるだろう壺の碑」を想像して歌に詠んでいます。

多賀城碑は江戸時代に「土中から発見された」か、またはそれまで「野ざらしになっていたよ」うです。発見時の状態が定かではありません。
大名は「歌枕にいわれのある地を自分の領土内に置きたい」と願っていたらしく、実際にそのような行動がなされたといわれています。
多賀城碑もそのような流れにそったのか、大淀三千風は多賀城碑を撰集「松島眺望集」の中で「壷の碑」として取り上げています。
このようなこともあり多賀城碑は壺の碑と見られるようになりました。

昔の人は「どこかにあるだろう壺の碑」として壺の碑を歌に詠んでいました。しかし、多賀城碑が壺の碑と見られるようになってからは多賀城碑を壺の碑として歌を詠むようになり、記録文も同様になったようです。現に芭蕉は多賀城碑を壺の碑として多賀城を訪れたことを記録しています。


「山家集」 西行
陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる壷の碑外の浜風

「家集」 藤原清輔
石ぶみやつかろの遠(おち)に有りと聞えぞ世中を思ひはなれぬ

「拾玉集」 源頼朝
陸奥の磐手忍はえそ知ぬ書尽してよ壷のいしぶみ

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壺の碑ではないかと言われている碑が青森にもあります。
こちらは「日本中央の碑」と呼ばれています。この碑も「壺の碑」と確証するものがありません。

オカルト好きな人はこの二つの壺の碑を関連させて妄想を抱くようです。そもそも多賀城の碑は日本中央の碑とは違って、壺の碑と関係無く製作されたと思われます(多分)。ですから、多賀城碑と日本中央の碑を関連付けることが間違っていると思うのですが、、、

多賀城碑は何故か碑面の上部に「西」と刻まれています。とりあえず、江戸以降の人は「碑面を西に向ける」と解釈したようです。この為に、今でも多賀城碑は碑面を西に向けています。そして、碑を守る堂の上にも東西南北をしめす物を乗せて「西」に意味づけすることに苦慮しているようです。でも、多賀城碑が発見された時の状態がわからず、設置当初から西を向いていたのか疑問が残ります。

多賀城碑の置かれている場所が西かと思えば、多賀城政庁の南側、外郭南門の内側にあります。南門が正門にお見えるので多賀城碑の内容から正門付近におかれていても不思議ではありません。しかし、外郭の内側にあることに少々の違和感があります。

んで、ミステリー好きな人は青森の日本中央の碑が「日本中央」と書かれていて、多賀城碑が「西」とかかれているので、昔の日本政府の中央は青森で、その政府の勢力範囲の西の端が多賀城だったと主張しています。、、、この説が正しいのなら、多賀城碑には「西」ではなく、「南」と書かれていたのではないかと思うのですが、、。

「壺の碑」の名前の由来は坂上田村麻呂征夷大将軍が石に刻んだ場所の地名が「つぼ」ということなのだと思います。しかし、石面を掘った「窪み」から「つぼ」と云う人もいます、、、、んーっ、地名の方が理解できる話ですね。

個人的な意見として、アテルイ[阿弖流爲/阿弖利爲]の敗戦の地を考慮すると、壺の碑がある地は多賀城よりももっと北にあり、それは岩手よりも北にあると思います。

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重要文化財
多賀城碑
平成十年六月三十日 指定

多賀城碑は、砂岩を加工して碑面をつくり文字を彫り込んだもので、高さ約二メートル、幅約一メートル、厚さ約七〇センチメートルで、碑面は西を向いて立てられています。
多賀城
                京去一千五百里
                蝦夷国界去一百二十里
                常陸国界去四百十二里
                下野国界去二百七十四里
                靺鞨国界去三千里
                此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将
                軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置
                也 天平寶字六年歳次壬寅参議東海東山
                節度使従四位上仁武省卿兼按察使鎮守
                将軍藤原恵美朝臣朝?修造也
                                                                                 天平寳字六年十二月一日

碑面には、上部に大きく「西」の字があり、その下の長方形の枠線の中に十一行一四〇字が刻まれています。碑文の内容は大きく分けて二つの部分から成ります。
前半は、多賀城の位置を京や国の境からの距離で示しています。
後半は、多賀城が神亀元年(724)に大野朝臣東人(おおのあそんあずまびと)によって設置されたこと、 天平宝字六年(762)藤原恵美朝臣朝?(ふじわらえみあそんあさかり)によって修造されたことが記され、最後に碑が建てられた年月日が刻まれています。碑文の内容から藤原恵美朝臣朝?の業績を顕彰するために建てられた多賀城の修造記念碑とみることができます。
また、碑は、歌枕として有名な「壷碑(つぼのいしぶみ)」とも呼ばれており、元禄二年(1689)には松尾芭蕉もこの碑を訪れ、深く感動し、涙を流した様子を「おくのほそ道」の中に書き残しています。多賀城碑は、群馬県吉井町の多胡碑(たごひ)、栃木県湯津上村の那須国造碑(なすこくぞうひ)とともに日本三古碑のひとつです。
                                                                                平成十一年三月 多賀城市教育委員会

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2009年10月3日 (土)  月兎

母が私に「私の伯母が"一年くらい病気で入院しても、どうのこうのしても、長い人生からみればあっという間だよ"」と言っていたと言います。

わたしは「伯母に心配させているのでしっょうね」と返事をすると、
母は「父のことを思ってのこと、伯母の息子が闘病しての経験をいっていると思う」と言う。

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今日は十五夜です。

『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』「捨身品」というお経に釈迦の前世の一つ「薩タ王子」の事が書かれています。

ある日王子は山林で飢えた虎の母子を見つけます。その母虎は涸渇して7匹の子に与える乳も出ない状態でした。それを見た王子は自らの身を捨てることを決意します。
王子の次の行動は、衣服を脱ぎその虎の口元に身を横たえると云うものでした。餓えた虎の母子は王子の肉を喰らい尽くした。

この話は法隆寺に残る厨子に捨身飼虎図として残されています。

これに似た話に「月兎」があります。
この話は次ぎのURLにわかりやすく書いてありました。
   http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/afjptukiusagi.htm

簡単に書くと、、
ある時、「うさぎ」と「きつね」と「さる」が行き倒れになった老人を見つけます。
三匹はこの老人を助けてあげようとします。きつねとさるは食べ物を見つけて戻ってくることが出来ました。しかし、うさぎは食べ物を見つけてくることができませんでした。
老人のところに戻ってきたうさきは自分の身を老人ささげるとして火に飛び込んだそうです。そのうさぎは月に引き上げられて、月の模様になったという話です。

確かに、考えさせる話であると思うのですが、この時の王子やうさぎの行動を真似てはいけないと思います。
捨身した王子は輪廻から抜け出せず、捨身しなかった釈迦は輪廻から脱出したとされています。極端な苦行や快楽に走るのではなく、中道を行きなさいと釈迦が説いています。

美しい月を見て、偏らないように生きていこうと考える今日です。

少しずつ  空気を抜いて  生きていく

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2009年10月4日 (日)  落ちる

朝、10時過ぎに中川昭一元大臣の訃報が流れてきました。

どうやら飲酒と睡眠薬の服用の痕跡があるようです。これが原因かわからないけれど、アルコールと睡眠薬は自殺するような組み合わせだと聞く。それを元大臣が知っていたか、知らなかったかわかりませんが、「辛いことはだれにでもあるよ」といいたい。

車で、港まで行きました。
今日は祝日の為か、画像のゲートは閉じられたままでした。用事の無いところに人が集まらないことは当たり前だけれど、妙な静けさを感じます。
船が一隻、港を出て行くことにも意味があるように思えてしまう。

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2009年10月5日 (月)  一竿風月

左側の画像が雷神埠頭で釣りをする人たちの様子。
右側の画像が仙台港中央公園の港に面するデッキで釣りをする人たちの様子。

車の運転の練習のために仙台港中央公園までドライブにいってきました。
公園の海に面した方に行くと、そこには多くの釣りをしている人たちがいました。様々な年代の人が、一人で、夫婦、恋人、友達関係かな?と、いろいろと想像させる人たちが釣りをしていました。

釣った魚をクーラーボックスに入れている人もいれば、魚をバケツに入れている人もいました。
そんな風景を眺めていると、、、、野良猫がそのバケツの一つに近づいて来てあっさりと釣った魚を銜えて逃げていってしまいました。

アニメ「サザエさん」のエンディングテーマで「お魚銜えたドラ猫、追っかけて、、、♪」というフレーズがあるけど、猫が魚を銜えて逃げるという光景をはじめてみました。

そんな事もありのんびりとした場所でした。

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 【一竿風月】いっかんのふうげつ
魚釣りをしたり自然を楽しんだりして、世間の俗事を忘れること。
「一竿」は、一本の釣り竿(ざお)。

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2009年10月6日 (火)  座敷童子

もし、見知らぬ人があなたの家に来てあなたを写真に撮り始めたらどう思いますか。
もし、見知らぬ人があなたの体をレントゲンに撮り始めたらどう思いますか。

座敷童子が姿を現すといわれている旅館が火事になったそうです。
もし、本当に座敷童子が存在するならば、この話を聞いてこの旅館は座敷童子に見限られてしまったのだろうかと心配になりました。

座敷童子の去った家は衰退するというように聞かされていました。
だから、私は座敷童子は福の神というよりも、「成功するような人柄の人」を好きになる神様なのかもしれないと思っていました。

民話の中で座敷童子が通りすがりの人に「もう○○はだめだから、□□の△△に行く」とこように話したといわれています。その後、この○○の家は落ちぶれたそうです。

市の観光担当の役人でしょうか、テレビのインタビューに「観光として大きな損失ですよ」と応えていました。その話に旅館ばかりではなくその町から座敷童子が出て行くのではないかと心配になりました。

座敷童子は大人には見えないといわれています。、ということは視聴率や売上げを目的に物見勇んでくる大人を喜ばないとおもいます。座敷童子が姿を現す旅館が静かな場所に戻って欲しいと思います。
もしかすると、座敷童子がいると福が訪れるのではなく、座敷童子が好むような場所に福が訪れるのかもしれない。

、、、、結びが、福の神仙臺四郎の権利者がいうところと似てしまった。

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私、幽霊の類を信じません。でも、それらに恐怖心があります。
「自然界の中で人間は弱い存在だったから、暗いところなど危険な場所を恐怖に思うようになっている」と思っています。だから、テレビで不思議な映像が流されていても「何かトリックがある」と疑います。

今回の事件に伴い座敷童子とする映像をみて、根拠も無くその存在を信じてしまうほど不思議なものがあった。本当にいるのだろうか、、、!?、なんとなく居てほしいと願う存在ですね。


2009年10月7日 (水)  下り坂

台風18号の強さのレベルが「猛烈に強い台風」が「非常に強い台風」変わり、台風はなお日本列島に向かい天気が急速に下り坂になっています。

こんな空模様の中で「末の松山」と「沖の石」を見に行きました。

松尾芭蕉がおくの細道に次のように書いているそうです。
「松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、・・」

末の松山の主役は松ではなく「丘」なのですね、その波も越えられない丘の上に松が生えていてそれを恋人と見立てているようです。昔、末の松山にはもっと多くの待つが生えていたのでしょうか。生えている松と松の枝が擦れ合うのを「恋しい人と人の間のちぎり」とみています。松と松の間には墓があり、契りを結んだ末にはこのよう(墓)になるのでしょうね、、芭蕉は「末の松」山からこのように思いめぐらしたのでしょうか。

私は末の松山から下り坂をおりて沖の石を見に行く。

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多賀城市指定文化財
「末の松山」
宮城県多賀城市八幡2丁目8−28

  「末の松山」は、「君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山浪もこえなむ」(「古今和歌集  東歌」)「ちぎりきなかたみにそでをしぼりつつすゑのまつ山なみこさじとは」(「後拾遺和歌集  清原元輔」)の歌で著名ですが、源信明、源重之、橘為仲など多賀城を訪れた官人(陸奥守  その他)ともゆかりが深く、多くの歌人たちに親しまれた、みちのくの代表的な歌枕です。
  「末の松山」の所在地については諸説がありますが、この多賀城市八幡説が最も有力です。
  元禄二年五月八日〔一六八九年  陽暦六月二十四日)松尾芭蕉は、塩竈到着(仙台から)ののち、「野田の玉川」「浮島」を経て、「末の松山」を訪れています。「おくのほそ道」には、「末の松山は、寺を造て末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、・・」と「末の松山」に接しての感動をしるしています。「寺」とは、末松山宝国寺のことを指しています。
  芭蕉の感動は、「末の松山」のもつ歴史の重みを無視しては考えられませんが、同時に「おくのほそ道」のこの行文は、「末の松山」の歴史に、新しい一ぺージを加えたといえます。
    「おくのほそ道」ののちも、芭蕉の足跡を慕って、多くの文人たちが、この歌枕を訪れており、その風潮は現在にも引き継がれています。
                                                                            平成十一年十二月十日
                                                                            多賀城市教育委員会

契りきな  かたみに  袖をしぼりつつ  末の松山  波こさじとは  後拾遺和歌集  清原元輔
[約束しましたね、おたがいに(涙でむぬれた)袖を幾度も絞っては、末の松山を波が波が越す(ような心変わりをする)ことは、しまいと。]

君をおきて  あだし心を  わがもたば  すゑの松山  浪もこえなむ  古今和歌集  巻二十 東歌
[あなたを差しおいて、他の人に心を移すようなことがもしあったとしたら、波が越えるはずがないといわれている末の松山をさえ、波が越すことでしょう。]

【末の松山】すゑのまつやま
宮城県多賀城市の海岸にある丘(八幡宮付近)、または岩手県一戸町と二戸市にあいだにある丘(浪打峠とも)という説があり確定がされていません。(他説があるようです。)
歌では、末の松山の松山を波が越えることなどありえないことを、「起り得ない事」の比喩として用いられます。

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多賀城市指定文化財
「沖の石(沖の井)」
宮城県多賀城市八幡2丁目19

おきのゐて 身をやくよりも  かなしきは  宮こしまべの  わかれなりけり    古今和歌集  小野  小町
[おきのゐで 身を焼くよりも 悲しきは 都島辺の 別れです ]

わが袖は しほひにみえぬ  おきの石の 人こそしらね  かわくまぞなき   千載和歌集  二条院讃岐
[私の袖は 潮が干しても 見えない おきの石のように 誰もしられず 乾く間もありません]

  沖の井(沖の石)は、古来歌に詠まれた歌枕であり、今もって池の中の奇石は磊磊(るいるい)とした姿をとどめており、古の情景を伝えています。
  江戸時代の元禄二年五月八日「おくのほそ道」の旅の途上、松尾芭蕉と同行者の曽良は、この地を訪れました。
  また、四代藩主伊達綱村の時代には、仙台藩により名所整備が行われ、手厚い保護を受けていたことが知られています。
                                                                            平成十一年十二月十日
                                                                            多賀城市教育委員会

曽良が沖の石と沖の井について次ぎのように記述しています。
奥井。末ノ松山エ弐丁程間有。八幡村ト云所ニ有。仙台ヨリ塩釜ヘ行右ノ方也。塩釜ヨリ三十丁程有所ニテハ奥ノ石ト云。村ノ中屋敷ノ裏也。(名勝備忘録)

この曽良の文章を現代語に訳すと次のようになると思います。私の曽良の文章の解釈が正しく、且つ曽良が事実を記述していたと仮定するならば、「沖の石」と「沖の井」は別々の石であり、文章から沖の石といま呼んでいる石が沖の井と解釈できます。
今の沖の石が住宅地に囲まれてその風景を哀しむ人や、今の沖の石があるところが以前は海だったと想像する人がいるようです。でも、これが沖の井で「沖の井のなかにある石」と解釈すると(仮定です「井の中にある石」なんて解釈をしているひとはいないとおもいます。)、今の風景でも楽しめます。

奥井(沖の井)。末の松山から218メートル程あります。それは八幡村というところにあります。仙台から塩釜に向かい右のほうです。
その塩釜から300メートル程あるところに(ある石を)奥の石(沖の石)といいます。それは村の中屋敷の裏です。

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