Diary 2009. 11
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2009年11月1日 (日)  郡山遺跡

多賀城に政庁が築かれる前に、仙台市に政庁があったのだそうです。全然知らなかった。
そこで調べてみたら、それは郡山にあるらしいとわかりました。(仙台のページでは郡山二丁目〜六丁目とあります。)

郡山に行ってみて、、、
史跡としての価値が見直されたのは最近らしく、いろいろな面で整備が遅れていました。「遺跡群」というけれど、どこにどのような史跡があるのかわかりませんでした。郡山二丁目と六丁目をうろうろしていて画像の史跡を見つけました。

ほかにも見るところがあるらしいのですが、やっと「ここに来た」という事に満足して、次の遺跡を見に行くという行動に移れませんでした。


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石碑に次のように刻まれています。

        史跡  仙台郡山官衙遺跡群
                     郡山官衙遺跡  郡山廃寺跡
              平成二十年十一月二十九日 建立

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                                                  以下は設置されている説明文
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郡山遺跡 (国史跡  仙台郡山官衙遺跡群  郡山官衙遺跡  郡山廃寺跡)

郡山遺跡は1300年前の飛鳥時代から奈良時代(7世紀後半から8世紀初め)にかけての役所(官衙かんが)跡です。
T期官衙「柵」からU期官衙「陸奥国府」へ建替えられています。
陸奥国で最初につくられた国府で、のちに多賀城に移ります。
U期官衙の南には、寺院「郡山廃寺」が併設されていました。
この地点の北側は、T期官衙、U期官衙ともに中心部となっています。
T期官衙では約90m×120mの板塀で囲まれた中枢部が、U期官衙では石組池や石組溝、石敷き広場などが配置された「政庁」となっています。

                                                                               仙台市教育委員会

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名称
        国史跡 仙台郡山 官衙遺跡群  郡山廃寺
指定年月日
        平成18年7月28日 追加指定年月日 平成19年7月26日
指定理由
        本遺跡は、規模・構造・経営年代から見て太平洋側の陸奥における城柵で多賀城の前身施設と考えられ、律令国家成立期における東北地方の政治・軍事の拠点の様相を知るうえで貴重である。

注意
        史跡内で現状を変えようとするときは、文化庁長官の許可が必要となりますので、仙台市教育委員会にご相談ください。

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2009年11月2日 (月)  どこバス仙台

仙台市交通局が「どこバス仙台」というサービスを始めてから数年がたっています。このサービスはネットから自分が待っているバスがいまどこにいるかを調べることができるものです。

そのURLは次のとおり。
http://www.dokobasu.kotsu.city.sendai.jp/busloca/index.htm

交通システムの変更などの工夫もあり、以前と比較してバスの運行が運行表に近い時間にバスが到着するようになったと思います。以前は、到着時間前にバスが行ってしまうことがありました。

仙台マークワンに用事があり、帰宅時、仙台駅バスプールのバス停にどこバスの情報が表示されるようになっていることに気づきました。これってとても便利だと思いました。

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2009年11月3日 (火)  風貌の変化

マリーアントワネットが死刑に処される時に、彼女の髪が一晩で白髪に変わったという話が残っています。後世の人が「恐怖のあまり一夜にして髪が白くなってしまった」と言っているようです。
もちろん、一旦、生えて体外に出てしまった髪が体調により、色を失う事は無いと思います。しかし、精神状態が表情などの外見に表れることがあるようです。

昨日、東京地方裁判所で押尾被告にMDMA使用に関する判決が下りました。
自宅から出てきた押尾被告の風貌は「老いた」という印象が強く残りました。側頭部には白髪が目立ち、額の髪の生え際が明らかに後退しているのがわかりました。

MDMA使用で起訴されてから半月。半月で、これほどに人間の風貌が変わるものだろうか、、、

ニュースでは別件で追起訴の可能性があるといわれている。

東京地方裁判所に向かう途中、押尾被告はマスメディアを見つけて不快な顔をしていました。このような表情が知らずしらずに顔を変化させ、顔に表情を固定化させてしまうのかもしれないとおもった。

押尾学に5年の執行猶予がつきました。普通に暮らせるというけれども「執行猶予」という言葉は彼の精神に影響をおよばさないはずがない。


2009年11月4日 (水)  人間の代わり

鉄道会社が自動改札を導入した時に「人員削減のためではありません」と表明していました。誰もが人員削減だろうと思いつつも、、誰もがそのままにしてきました。自動改札が普及した今では、自動改札になれて、自動改札の方が早くていいと思うことさえあります。

しかし、この効率化は今いる人の人員削減にはならなかったかもしれませんが、将来に対しての人員削減だったのですね。それはそれでいいのかもしれないけど複雑です。

ヨークベニマルにいったら自動精算のレジがおかれていました。まだ、マシンになれている人が少なくて利用している人があまりいませんでした。わたしはこのレジは初めてではないので便利に使用してきました。その内に、誰もが使用するようになるのかもしれませんね、、、

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2009年11月5日 (木)  ハーブを植える。

ビニールハウスにスペースがあったので、ハーブを植えてみようと思い立ちました。
時期はずれだと思ったけど、ホームセンターの園芸コーナーにはハーブの苗が売られていました。店の人によると「一年中、売りますよ」と話していました。

それで、プランタにレモンバーベナ、レモンバーム、ジャーマンカモミールを植えました。

それぞれの効能は、、、<=あくまで参考程度です。

レモンバーベナ
         鎮静、緩和、胃腸機能の調整、神経緊張、不眠、抑うつ
レモンバーム
         頭痛、吐き気、解熱、発汗作用、消化不良、記憶力低下、神経痛
ジャーマンカモミール
         消炎、発汗、風邪に、腹痛や下痢に、リラックス効果、神経性消化器官障害に、不眠、寒気、頭痛

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2009年11月6日 (金)  男は40過ぎたら、自分の顔に責任を持て

整形外科、形成外科の違いをよく理解していませんが、、、歴史上でこれに類する手術の記録があります。
しかし、人から聞いた話で正確じゃないかもしれない。

罪人を罰する様々な刑がある中で、世界中に鼻を剃る(切り落とす)刑があったようです。
最初の整形外科はこの罪人が無くした鼻を直す事だったそうです。その方法は腕の一部の皮膚を剥ぎ、欠けてしまった鼻をその中に埋め込むのだそうです。しばらく顔を腕につけたままにしていると鼻の周りに肉がつくそうです。その肉を鼻の形を残して腕から切り離すことにより鼻を復元したそうです。
場所はインドだったと記憶していますが、、、どこまで本当の話だろうか。

英国人リンゼイさん(当時22)殺し(正確には死体遺棄)の容疑で指名手配されている市橋容疑者が整形手術を逃走を続けているという事がニュースになっています。
その市橋容疑者の整形後の顔が警察から公表されました。公表されたその顔は別人かと思うほど変わっていました。<= あまりいい顔にはしていなかった。

最初に整形手術を受けた人は刑を免れためではなく、これから生きていくために必要だったのです。「男は40過ぎたら、自分の顔に責任を持て」といいますが、この市原容疑者は10年後にどうしているのだろうか。


2009年11月7日 (土)  マンモス坂

多賀城廃寺にも暫く行ってい無いと思い、多賀城廃寺に行ってきました。以前は、誰にも見向きもされていなかった史跡で、一部の歴史好きな人が見に来るだけの史跡でした。今日、多賀城廃寺に行って廃寺跡を「散策をする人}、{遊ぶひと」を多く見かけました。されど、ここが大事な史跡と認識している人はいなく、敷石の上を自転車で走り回る人がいました。この公園を設計した人はそれを意図していたのだろうか。

多賀城廃寺跡の周囲を歩いていると神社がありました。名前を見ると「多賀神社」とありました。ここにも多賀神社がある??。由緒をよんでその内容に驚きました。簡単に言うと「現在、多賀神社の所在がわからなくなった。多賀城廃寺の東塔の跡にあった神社を移築して多賀神社とした。」というのです。もともと祭られていた神様はどうなっているのだろうか、、、疑問が残る説明文。

多賀城廃寺跡に廃寺跡の近くにある史跡を示した地図がありました。そこで「おもわくの端」をみつけて、そこに行くことにしました。公園内を散策している人におもわくの橋への行きかたを尋ねたら「この道の信号機を二つ越したところに、左側にマンモス坂という下り坂があるので、そこを下ったところにある」と教えてくれました。それで、信号機を二つ越えて左に降りようとしてびっくりしました。車の前輪は既に坂道に入っている。車の中から見るその坂道は絶壁のような急斜面だったのです。、、「もうこのままこの坂を下るしかない」と覚悟を決めて坂を下りました。

心は恐怖で緊張し、体は固まったまま坂を下りきると、さっき「おもわくの橋」の場所を教えてくれた人がいました。「多分、まっててここと教えてあげないと通り過ぎると思ったから」と話していました。確かに、言われなければ通り過ぎてしまう小さな橋でした。でも、私が通り過ぎると思ったのは橋が小さいからではなく、あまりにも急坂を下った後だからです。その方はマンモス坂の勾配のきつさなど頭にないらしい素振りでした。多賀城の人はこの坂道に慣れているらしい。

おもわくの橋をみたら、、
橋に設置されている説明文によると橋の下を流れる川が「野田の玉川」とありました。

帰り道、下った坂道は登るしかなく、恐怖に耐えながらこの坂をのぼりました。とても怖かった、ここでエンストしたら私の車の運転技量ではどうしようもなくなるという恐怖。しかも、坂道を登ったところに一時停止があります。あまりの緊張に、坂道を登った後に道に迷いました。

画像ではそんな急な坂に見えません。画像に写っているのは坂の一部で勾配12度の坂道、この上に勾配30度の坂道が続きます。

史跡なんかよりも、マンモス坂が印象に残った日になりました。

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         みちのくにゝまかりける時、よみ侍ける

         ゆふさればしほ風こしてみちのくののだの玉河千鳥なくなり
                                          新古今和歌集 巻六 冬歌 643 能因法師

平仮名を漢字にして、57577の形式にすると次のようになります。
         夕されば 汐風越して みちのくの 野田の玉川 千鳥なくなり

夕方になると潮風が吹いてきて、その風に乗ってきて、ここ陸奥の野田の玉川にさびしく千鳥の鳴き声が聞こえてくるよ。
能因法師は実際にみちのくを旅をしているそうです。その時の歌でしょうか。

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古りたる棚橋を紅葉埋みたりける、渡りにくくてやすらはれて、人に尋ければおもはくの橋と申すはこれなりと申しけるとききて、

         ふままうきもみぢのにしきちりしきて人もかよはぬおもわくの橋

信夫の里より奥へ二日ばかりいりてある橋なり。

                                                          山家集 1129 西行法師


平仮名を漢字にして、57577の形式にすると次のようになります。

         踏まま憂き 紅葉の錦 散敷きて 人も通はぬ 思はくの橋

豪華絢爛な錦のような紅葉が橋全体に散り敷いているので、踏むのがもったいなくて渡れないまま、思惑の橋には人通りが絶えてしまったよ。

http://wwata.hp.infoseek.co.jp/903.htmに次のように書かれていました。
前九年の役で知られる安倍貞任が恋人「おもわく」と待ち合わせたという恋物語が伝えられ、「安倍の待橋」とも「紅葉橋」とも呼ばれていました。

歌とは違い「おもわくの橋」は普通にある土橋だったののかもしれません。その土橋に色鮮な紅葉が敷きつめられたように散り積もっている様子を思い浮かべます。東北の土の色は「黒」、そして紅葉は「赤」。
おもわくという名の女性がいたのでしょうか、

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特別史跡
                    多賀城跡附寺跡
                                                     大正 十一年十月十二日 史跡指定
                                                     昭和 四十年四月十七日 追加指定
                                                     昭和 四十一年四月+一日 特別史跡指定
                                                     昭和 四十九年二月十八日 追加指定
                                                     昭和 五十三年十一月二十一日 追加指定
                                                     昭和 五十五年三月二十四日 追加指定
                                                     昭和 五十九年三月二七日 追加指定

多賀城は、奈良時代に陸奥国の国府として造営され、それ以後中世まで国府が置かれた遺跡である。
多賀城の名が文献にはじめて登場するのば「続日本紀」の宝亀十一年(七八〇年)の記事であるが天平九年七三七年)の記事には「多賀柵」の名がみえる。
また、奈良時代のばじめのころ「鎮所」陸奥鎮所の名がたびたび史料に登場していることなどから、多賀城は奈良時代には国府とともに鎮守府も置かれ、政治的、軍事的中心地となっていたものと思われる。
多賀城は、延唇二十一年(八〇二年)鎮守府が胆沢城(岩手県水沢市)の造営によって移されてから後も陸奥国府として、また二十一紀の前九年、後三年の奥州の乱においては、源頼義、義家の治所、文冶五年(一、一八九年)の源頼朝の奥州藤原氏討伐の際の滞在所、さらには南北朝の際の義良親王、北畠顕家の治所等として、史上にその名ととどめている。
多賀城廃寺跡は、多賀城跡の南東約一qの大字高崎の低い丘陵上にある。
この寺院については、古代文献には何ら記録されていないが、大正十一年の史跡指定にあたって、これを多賀城の付属寺院であるとみなし多賀城跡に附指定されたものである。
発掘調査ぱ、昭和三十六、三十七年に実施ざれ主要伽藍が明らかになった。伽藍は東に塔、西に東向きの金堂があり、両者の前方中央には門があり、中央後方には講堂がある。
門(中門)の左右からは築地が延び塔、金堂を囲んで講堂の左右にとりついている。講堂の後方には、大房と小子房からなる僧房があり、大房の東西は倉も見つかっている。
また、講堂近くの東西は鐘楼、経蔵が推定されている。
さら西側築地の西にも仏堂と思われる建物や築地南西隅の南西方向にも方形の建物が発見されている。
講堂や僧房の調査では礎石き持つ建物の下から掘立柱建物が直発見され、小子房は創建以来掘立柱の建物であることなどから、これらは、掘立柱建物から礎石を使用すろ建物改修されたものと思われる。
この廃寺跡からは、多賀城跡と同じ創建瓦や九世紀後半の瓦と同笵のものも出土し、十世紀中頃の土器もみつかつていることからこの寺院は、多賀城とほぼ同時に建立され、多賀城と同じような変遷をたどったものと思われる。
昭和四十一〜四十三年度に遺構を保護し、また広く一般の人々に、利用してもらうために、総計三千三百万円で環境整備事業を行なった。

昭和四十四年三月
                                       文化庁
                                       宮城県
                                       多賀城市
昭和六十年八月書替
                                       多賀城市教育委員会

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多賀神社
         鎮座地
                             官城県多賀城市高崎一丁目十四番十三号
         御祭神
                             武甕槌命(たけみかづらのみこと)  経津主命(ふつぬしのみこと)
         配祀
                             天照皇大神  久那斗神  菅原道真公
         例祭
                             四月十五日

         由緒

この地は、かって陸奥国多賀郷の中心地で陸奥国府鎮護寺の境内にあり、当時任務に赴いた国司、開拓移民が崇敬していた江州多賀神社(現滋賀県多賀大社)を遷祀したとされている。
奈良時代の風土記に当時の神事が記載されており、平安時代には桓武天皇より西暦七九六年に従五位下の位を受けるなど、朝廷や民衆より崇敬を受けていた古社であると言える。
しかし、朝廷が陸奥征服を果し、軍事拠点であった多賀城の繁栄も途絶えるのに伴い、当社の所在も不明になるというほど一時衰退した。
明冶に入り村社を決める際、所在さえ定かでなかった為いろいろ論議されたが、明治五年九月に「延喜式内社」として村社格に加列される。
昭和四十年当社境内地を含めた一円が、国の特別史跡に指定され、史跡公園の施工に伴い、多賀城廃寺跡 東塔基壇上に鎮座した神殿、その他の施設を移転し現在の地に神霊を安鎮した。
平成十三年、氏子崇敬者協力のもと、社殿を改築し現在に至る。

         多賀神社総代

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野田の玉川

史跡の宝庫であるわが郷土は、歌枕や伝説に彩られたまちでもある。
古来、王朝貴族をはじめとする多くの歌人がこの地の情景に心を託し歌を詠んだ。

ゆふさればしほ風こしてみちのくののだの玉河千鳥なくなり
                                                                (新古今和歌集)

平安中期のわび人能因の歌である。
その流れを塩竈の大日向に発する玉川は、全国六玉川のひとつといわれ、末の松山や沖の石と並ぶ、郷土が誇るみちのくの歌名所である。

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おもわくの橋

歌枕で名高いおもわくの「橋」は、四代藩主伊達綱村の時代にも整備が行われている。
その時、'橋の東側丘陵に平安時代の歌人西行の歌にちなみ、楓が植えられたという。

ふままうきもみちのにしきちりしきて人もかよはぬおもはくのはし
                                                                (山家集)

かつて西行がこの地で見たものは、みちのくの遠の朝廷の、わびしくも美しい情景か。
元禄二年、芭蕉もまたこの地を訪れている。{

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