Diary 2017. 10
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2017年10月1日 (日)  竹取翁

「竹取の翁」というと「かぐや姫・竹取物語」を連想する人がほとんどだと思います。

万葉集をみれば、竹取翁という人がいます。
長歌で「竹取翁」という名からとても目立つ存在のこの歌、若いころに読んだ時には読み流したものでした。最近、万葉集に「このような歌があった」と思い出すことがあります。

そう、自分が年をとり実感することが多くなったからです。


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昔、老翁ありき、号(なづけ)て竹取翁と曰ふ。この翁、季春(きしゅん)の月に丘に登り遠く望むに、忽(たちま)ちに、羮(あつもの)を煮る九箇の女子に値(あ)ひき。百嬌儔(たぐ)ひ無く、花容に匹するは無し。時に娘子等は老翁を呼び嗤(わら)ひて曰はく「叔父来れ。この燭の火を吹け」という。ここに翁は「唯々」と曰ひて、漸(やくやく)に赴き徐(おもふる)に行きて座(むしろ)の上に著接(まじは)る。良久(ややひさか)にして娘子等皆共に咲(えみ)を含み相推譲(おしゆづ)りて曰はく「阿誰(あた)がこの翁を呼べる」といふ。すなわち竹取の翁謝(ことは)りて曰はく「慮(おも)ざる外に、偶(たまさか)に神仙に逢へり、迷惑(まど)へる心敢(あへ)へて禁(さ)ふる所なし。近く狎(な)れし罪は、希(ねが)はくは贖(あがな)ふに歌をもちてせむ」といへり。すなはち作れる歌一首并せて短歌

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昔、八十歳を越える老人がいた。呼び名を竹取の翁といった。この老人が春三月頃に丘に登って遠くを眺めると、たまたま、羮を煮る九人の女性に出逢った。その妖艶さは比べるものが無く、花のように美しい顔立ちに匹敵する人がいない。その時、娘女達は老人を呼び笑いながらいった。「おやじ、ここに来い。この焚き火の火を吹け。」と。老人は「はいはい」といってゆっくりと娘女達の間に近づき、膝を交えて座った。ところが、しばらくして、娘女達は一様に笑いを含めながらお互いをつつきあい、「一体、誰が、このおやじを呼んだの」といった。そこで、竹取の翁が詫びていうには、「思ってもいなくて、たまたま神仙に回り逢い、戸惑う気持ちをどうしても抑えることが出来ませんでした。近づき馴れ馴れしくした罪は、どうか、この償いの歌で許して欲しい」といった。そこで作った歌一首。并せて短歌。


2017年10月2日 (月)  采薇の歌

采薇の歌

登彼西山兮、采其薇矣、
以暴易暴兮、不知其非矣。
神農虞夏、忽焉沒兮。
吾適安歸矣 。
吁嗟徂兮、命之衰矣。

彼の西山に登り その薇を采る
暴を以って暴に易へ その非を知らず
神農・虞・夏、忽焉として没っす 吾、適に安にか帰らんとす
于嗟徂かん 命の衰へたるかな

あの西の山に登り、そこの蕨や山菜、薬草などを採って暮らしてきた。
(紂王の)暴虐な政治に対して、(武王は戦争という)暴虐で(思慮も無く安易に)応え、 (武王は)その行動が非(不義)である事を理解することができない。
神農も、虞も、夏も、たちまち失せた。私はどこに行けばいいのだろうか。
嗚呼、(そう)しよう。(私の)命も衰えたるかな 

この漢詩は「史記・伯夷列伝」に記述されているものです。 伯夷、叔齊は中国で「義の人」として有名で、節を守って山中で餓死したと伝えられています。

私が聞いている話はこんな内容です。

【背景と予備知識】
中国では「国」という単位が、日本で云う「県」にあたるようです。 しかし、それぞれの国王に権力があったようなので、幕藩体制の「藩」の方がちかいようです。 この話はこの「殷」「周」「弧竹国」の関係を理解しないとわかりづらい内容となっています。
昔、中国に「殷」という国があり、諸国を統一していました。 「周」も「弧竹国」という国も殷の統制下にあった国の一つですが、殷の国王である紂王の暴虐に「正義」を掲げて周は軍をたてました。 その結果、殷は滅亡し、周が覇王として諸国の盟主となるなかでの話のようです。 この戦いの中で周の国王は「文王」から「武王」に変わっています。

【内容】
殷の末期の頃、弧竹国の君主が末子の「叔齊」を次の君主とするようにと遺言を残して死亡しました。 ところが、叔齊は長子が跡を取るべきとして、君主の地位につきませんでした。 長子の「伯夷」は親の遺言を尊重すべきとして、これまた君主の地位につくのを拒み「周」に出国(?)します。 それを知った叔齊も周まで伯夷を追いかけていったようです。
(その背景として)中国では、弟が長子をさしおいて家を継ぐ事を「不義」とし、親の指示に従わないことを「不孝」といい嫌ったそうです。
この頃の周の政治情勢は文王が死亡し武王が王となっていました。 その武王は殷の暴虐に対して「義」を掲げ、殷を滅ぼそうとしてまさに戦争に行く状態だったようです。 伯夷、叔齊は 「先の王である文王が亡くなったばかりで、喪に服さないまま戦争に行く事は不義である」と武王に意見します。

その後、武王は殷を滅ぼし周王朝を建てるのですが、伯夷、叔齊は不義である王の粟「禄」をもらう事はできないとして 山に入り蕨(わらびの事ですが、山菜と思ってください)を採って生活をし、最期は餓死したと言われています。 (想像ですが、周が盟主になったのでどの国にいっても周の配下になるので、山中に入ったのだとおもいます。)

トッブページの漢詩はその伯夷が作ったものとされているものです。

史記は「天道はえこひいきなく、常に善人に味方するものである」と云う事について、、、幾度と無く疑問を問い掛けています。
それから司馬遷は孔子が「仁を行うとして。仁をおこなったのだから、伯夷と叔齊には恨みが無かった」と云う言葉に対して、 この「采薇の歌」を記述して「これに由りて之れを観みれば、怨みたるか、非らざるか。(由此観之、怨邪非邪) 」、とコメントしています。 つまり、「采薇の歌」を読んで、伯夷と叔齊とは、世や人を怨んだのだろうか、それとも孔子のいうとおりに恨みを持たなかったのか。

史記の列伝はこの「史記・伯夷列伝」がトップに書かれています。そこには司馬遷の意思が感じられます。
伯夷、叔齊の次の話しとして、史記ではこの話の「美」とは違う「管鮑の交わり」が記載されています。


2017年10月4日 (水)  お月見

月がうつくしい夜になりますように

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2017年10月23日 (月)  超大型の台風

昔、「超〇〇〇〇」というような表現が流行ったことがありました。
今では平易な言葉になりました。

NHKで「超大型の台風」とアナウンサーがはなすと、クスッと笑ってしまいそうになります。


古くなりましたが雨風をしのぐ家を残してくれた父にあらためて感謝する朝です。



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就寝前にて、
台風で道路が川のようになってしまった一日だった。

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