万葉集 3巻415
上宮聖徳皇子の竹原井に出遊しし時に、
龍田山の死れる人を見て悲傷びて作りませる御歌一首
〔小墾田宮に天の下知らしめしし天皇の代。
小墾田宮に天の下知らしめししは豊御食炊屋姫天皇なり、諱は額田、諡は推古〕
家にあれば妹が手まかむ草枕旅に臥せるこの旅人あはれ
家に居たら妻の手を枕とするであろうに、旅先で倒れていなさるこの旅人は、ああいたましい。
以下、資料
家有者 |
家にあれば |
いへにあらば |
妹之手将纒 |
妹が手まかむ |
いもがてまかむ |
草枕 |
草枕 |
くさまくら |
客尓臥有 |
旅に臥せる |
たびにこやせる |
此旅人呵怜 |
この旅人あはれ |
このたびとあはれ |
注意:「呵」は偏が小が正しいようです。
【日本書紀・104】この作に関連し推古紀二十一年の条に次の記述があります。
「・・・・皇太子(聖徳太子)
片岡に遊行したまひき。時に餓ゑたる者、道の垂(ほとり)に臥(こや)せり。
よりて姓名を問わせども言(まを)さず。
皇太子視たまひて飲食を与へ、すなわち衣裳を脱ぎて餓ゑたる者に覆ひて、
安らかに臥(こや)せと宣(の)りたまひき。歌よみたまひき。
してなる 片岡山に
飯に飢て 臥せる その旅人あはれ
親なしに 汝成りけめや さすたけの 君は無き
飯に飢て 臥せる その旅人あはれ
コヤス=横たわる「コユ」の敬語
【拾遺和歌集】次ぎの歌がある。
拾遺和歌集 哀傷 1350
聖徳太子、高岡山辺道人の家におはしけるに、餓たる人道のほとりに臥せり。
太子の乗りたまへる馬留まりて行かず。
鞭を上げて打ちたまへど、後へ退きて留まる。
太子すなはち馬より下りて餓ゑたる人のもとに歩み進みたまひて、紫の表の御衣を脱ぎて餓ゑ人の上に覆ひたまふ。
歌をよみてのたまはく
しなてるや片岡山に飯に餓ゑて臥せる旅人あはれ親なし
に馴れに馴れけめや、
さす竹の木根はやなき、
飯に餓ゑて臥せる旅人あはれあはれ、といふ歌なり
「に馴れやなれやけめや」は親なしにつづく歌の一部ではないかとおもわれます。
最初を短歌の形できり、残りを注釈の形に記述しているので文章としておかしくなっている?とおもいます。
短歌と続けてむと、「親がいない事になれていたのか」という意味にとれます。
短歌だけの意味では、「(しなてるや)方岡山で食に飢えて倒れた旅人、その人を哀れに思う。親がいないのだろうか」と云うところでしょうか。
、
拾遺和歌集 哀傷 1351
餓ゑ人、頭をもたげて、御返しを奉る
いかるがや富緒河の絶えばこそわが大君の御名を忘れめ
この歌の変形、または近い歌が多くの文書に残っているようです。たとえば、推古記などです。
ここまで